今回はブログが進まない

何故か亡くなる前の20日間の様子を思いだすと 悲しく憂鬱になりなかなかブログを書く事ができず・・・・


12月24日クリスマス・イヴの日がお葬式でした。

亡くなる3日前から強い睡眠薬とモルヒネを使用しました。

その頃2回程「俺と立場が変わっていたら これほどの世話が俺にはできただろうか?」と言った言葉がいつまでも消えません。こう言う事を言い出すともうダメなんですよね。

私なりに出来る事はしたつもりですが やはり50代で死んでいく姿はとても可哀想でした。

エンディングノートには「何にもしてやれなかった。すまんなぁ。色々と有難う。楽しかった」と書いてありました。

そして4月~12月の9ヶ月間が 私達の結婚生活で一番長く一緒に暮らした期間でした。


とても残念な事は静養している時 

「手術をする1年3ヶ月前頃に 県外の病院で健康診断の結果1つ少し異常な数値が出たのでもっと詳しく検査しなさい」と先生から言われたのに 仕事が趣味で病院嫌いの主人は再検査をしないまま乗船したのです。

せめて 私に言ってくれたら・・・・・その時なら まだ早期発見できたかも?

胃ガンステージ4と知った時心の中で とてもその事を悔やんだと思います。

私は今でも時々思います。本当にバカな奴と。。。


今日は午後からお仕事。

天気も良いし 仕事はとても楽しいです。

で、この前友達に「主人のエンディングノートに 私宛にこれから身体に気をつけてとか・・何故これから先の事を書かなかったんやろ?」と 聞いたら

友達は「親元もある程度財力もあるから 生きていくにはどうにかなると思ったんやろ?」と。


いえいえ私の母親は きびしい親ですぞ。

私もたくましく自立できました。

父親は53歳で主人と同じくガンで亡くなり2人共よく似てます。 

仕事が趣味・豪放磊落・酒飲み・健康過ぎて最後に自滅・・・・・でも男らしい性格でもありました。。。

12月

12月になると咳はますます酷くなり 咳の為あまり眠れていない様なので 

私は直感的に 心の中で年内中に死んでしまうんじゃないかと思いました。

12月6日が通院の日ですが 先生は「いつでも来て下さい」と言ってくれているから 

3日から毎日「病院へ行こう」と言っても6日に行くと本人は言います。


6日に行くと 入院となりました。

酸素吸入を取付け胸水が溜まる為 左右から管も入れました。

相部屋になっているから特別個室へ移動をお願いして 色んな荷物を家へ取りに帰り職場にもしばらく休むと連絡しました。

急いで病院へもどり 先生と2人で話しをしました。

「先生 最後に1度家へ帰れますか?」

 先生は「帰れないと思う」と。

「年は 越せますか?」

先生は「越せないと思う」と。

私は一言「覚悟はできています。よろしく お願いします」


これから何か漠然とした大きな大きな大変な事がこれから起こっていくのだ と思いました。

それから毎日 泊まり込みで出来る限り主人の部屋で居ました。

トイレへ行くのも呼吸が乱れ 色々と管がありますから 後ろから私は管が縺れないように何をするにも付きっきりでした。

10月〜11月

10月はほとんど出歩く事もなく 通院とスーパーへ一緒に買い物に行ったりTV を観たりの毎日でした。紅葉が観たいと言いそれも一泊二日で行ってきました。

主人は「8月は試験を受けてみよう と言う気力があったけど今は何もする気がしない」と一言言いました。

心の中で私は来年の春にはダメかもしれない と思いました。主人の看護もお葬式の用意も何もかも 私一人がしなければならないので一人で出掛け家族葬の申し込みの手続きをしました。

ある日主人が「伊勢神宮と出雲大社へ行ってみたい」と言うので 病院の先生と相談して体調の安定している11月の初め頃に行きました。

途中で体調が悪くなったらどうしよう とても不安でしたが何とか行けました。

11月の末頃は空咳がよく出てました。夜は 何度も部屋へ見に行き部屋を暖かくし乾燥させないようにもしましたが あまり効果は無いようでした。



今日は英語の講師をしていた友人が5年ぶりに遊びに来ました。

今は趣味をしながら 母親の看護をしています。結構な花・お供え物を頂きました。

彼女も手芸をするので 手芸の話し昔話などしてとても楽しかった。